山口慶之助さん
Profile
1942(昭和17)年11月19日生まれ、82歳。東京都出身。著名な仏師の祖父と彫刻家の父を持ち、4人兄弟妹の長男として育つ。日本大学理工学部を卒業後、矢崎化工株式会社に入社。73(昭48)年3月に掃除用具レンタル業を創業し独立。以来宇都宮市在住。
94(平成6)年に社名を株式会社ドクターリフォーム・サンセイと変更し、2003(平15)年60歳で社長引退、息子にリフォーム会社を継承。日本住宅リフォーム産業協会(ジェルコ)会長、NPO法人とちぎノーマライゼーション研究会理事長など要職を歴任。
一男二女の父。先妻に先立たれ、再婚した妻と地域の中で穏やかに暮らしている。
『鶏口となるも牛後となるなかれ』
性格は、本人曰く「生意気で、負けず嫌い」。しかし、正義感あふれる努力家でもある。
単純にトップに立ちたいということではなく、自分の可能性に挑戦できるかどうかが、判断の基準。そして、ひとたび選択すると、苦境であってもとにかく成果を上げるまで、がむしゃらに創意工夫して成し遂げる。
そうすることが「自分の人生を支配しているのかも」と、自らの生き方を振り返る。
大学卒業時は、高度経済成長期にあって、工学部出身者は大手企業からひっぱりだこ。にもかかわらず、あえて給料低めの小規模企業に目を向け、自ら入社を請う。「成長期の会社だからこそ、(自分も)活躍できそう」と、今では“ヤザキのポリバケツ”で有名な矢崎化工㈱に入社。
営業の仕事に就くが、当初は同期の中でも売り上げがビリ。そこで、「口下手なので、パンフレットを入れたポリバケツを担いで、電車で営業先に赴き、地域の町内会長さんたちに売り込みに行った」そうだ。そのアイデアと行動力と熱意が功を奏して、いつしかトップセールスに。2年目にして名古屋支店次長に大抜擢され、社長の息子と共に海外留学の話が出るほど期待される存在に。
千利休の言葉に「人の行く 裏に道あり
花の山」とある。みんなが同じ方向に行くときに、反対の方向へ進むことで、隠れた成功を見つけることができるという意味だが、まさに先見の明もあったということか。
そんな折、彫刻家の父が52歳で他界。長男として、一家を養うために、退社して妻子を連れ東京の実家に戻る。
『家づくりはモノではなくコト』
縁もゆかりもない栃木県に移住したのは、日本リースキン㈱の栃木県でのフランチャイズ権利を購入したから。「いくつかの候補の中から、日光街道の葉桜の美しさにひかれて栃木に決めた。いい加減なきっかけですよ」とうそぶく。市場目線ではなく、生活環境目線で選ぶあたりは、家族に対する責任と愛情があるからこそ。
しかし、「かつてトップセールスマンを自負していても、全県下回って200円の雑きんが売れない。那珂川を見ながら妻に作ってもらった弁当を食べ、なんてだらしないんだろう」と悔しい思いもしたそうだ。この経験が活かされ、けっして偉ぶらず、“清く正しく誠実に”ふるまうことを肝に銘じて、社名をサンセイ(3つの頭文字の読みから)とし、業績を積んだ。
その後、時流をとらえて、何度かの業態転換をする。
「いつまでもリースキンでは…」と、当時流行りだした内装を手掛ける。知識や技術は職人を一人採用して、OJTで覚えた。「内装屋で一番になろう」と志を高くし、大手ゼネコンより小さな工務店に目を向け、せっせと仕事を受注。やがて下請けから元請けに、さらにはリフォームを手掛けるまでに成長。インテリアコーディネーターや一級建築士など、必要な資格はつど取得した。リフォームという言葉すらない時代に、空間提案という新しい考え方を自ら実践し、日本住宅リフォーム産業協会(ジェルコ)の会長としても全国にその考えを広めた。やがて社名もドクターリフォーム・サンセイと改名し、業界のリーディングカンパニーとなった。
「ドクターは、まず問診をして総合判断してから専門医が治療する。リフォームも同じ。新築とは違い、住んでいるからこその不満がある。その不満等をちゃんと聴いてからプランを提示し専門職人が施工する」と、社名の由来を熱く語った。
「家はただ単に住む場所としてのモノではなく、そこに住まう人たちの暮らし(コト)がある。家づくりは、まずコトがあってその後にモノがくる」というのが、慶之助さんのこだわり。
間取りや素材、価格ではなく、どんな暮らし方をしたいかが先。そこに耳を傾ける。納得がいかなければ、職人と喧嘩してでも施主さんの想いを優先し、やり直すこともいとわない。
施工例をビフォーアフターのパネル写真にして、カンセキや足利銀行、文化会館や文化センターなどパブリック性の高い場所に掲出し、メディアでも露出。「すべて人のご縁でできたこと。恩人がたくさんいる」と、今でも大恩人の月命日に墓参りを欠かさない。そうやって誠意を尽くすことで、さらに絆が深まり縁も広がって、良縁を自ら引き込み、会社をどんどん成長させた。
「いい事をしていれば自分に返ってくる。それを感謝できる心の余裕も必要」と、後進たちに伝えているそうだ。
(株式会社カンセキ創業者 故 服部吉雄氏と)
『努力することの大切さ』
病気を理由に東京から呼び戻した息子こそ、後にTVチャンピオンのリフォーム王になった山口弘人さん。不満やクレームから逃げないで対処することはとても大切と考え、息子に担当させた。その仕事ぶりに「(息子は)嘘をつかない。安心して任せられる男」と、60歳で会社を息子にバトンタッチ。社会的地位も潔く後進に譲る。
『竜馬がゆく』で主人公が剣道で強くなったことに感化され、大学時代に始めた剣道。会社を引退して40年ぶりに竹刀を握る。学生時代、天才的にうまいけど稽古にこない人よりも、一生懸命稽古に励んで基本を忠実に守っている自分を選手に選んでもらったことで、努力することの大切さを痛感。それからは、一生懸命やることを自分の価値基準として、その姿勢を仕事にも反映させてきた。
再開した剣道を「不器用だから一生懸命やる」とばかりに精進し、7段まで全て1回でパス。「決して強いわけではない、基本に忠実だった結果。自分に限界をもうけず、今できるところで精一杯チャレンジする」と。実は、各段位を1回で通るのは稀なこと。ましてや、80過ぎの剣士はほとんどいない。そんな中、難関中の難関、合格率1%と言われる最高位の8段の一発合格を目指して、片道1時間ほど離れた道場にほぼ毎日稽古に通う。一途なその姿に、社是の“清く正しく誠実に”が思い浮かんだ。
『一隅を照らす心の豊かさ』
小さい頃を振り返って、「もの静かな暴れん坊」と。
いじめっ子からいじめられっ子を助けるために戸を壊し、理由を先生に問われても沈黙し立たされるという正義感の強さ。理事長を務めたNPO法人とちぎノーマライゼーション研究会も、障がいのある人もない人も共に生きる社会を目指すもの。
こうした社会の中の弱者に目を向け、人知れずがんばる人を理解しようとするのは、幼い記憶の中の両親の姿と重なる。日展に26回も入選するほどの著名な彫刻家の父は、体が弱かったこともあり、聾者の職人とも筆談するなど優しく親切に接し、お金に固執せず「お人よし」と言われたほど。一方、九州出身の母は、潔く筋を通し、弱い人にも目を向けて手を差しのべていた。
人を助けることで慶びを得るという意味を持つ“慶之助”には、まさにご両親の想いが詰まっているようだ。
親から学んだ生きる姿勢は、子ども達や会社の次世代にもしっかりと受け継がれている。時代の流れの中で、会社は㈱サンポウの傘下に入ったが、ブランドを継続させることで、会社の神髄はそのまま引き継がれた。
最初は「え~」と戸惑ったが、「息子の『お客さまの進行中の家を守りたい、スタッフを守りたい』という想いを理解してくれる会社だったので安心した」と。逆に、そう決断した息子を誇りにさえ思えたそうだ。プライベートな生活も「実にすっきりとスムーズに事が進んで満足。これも、人の縁。感謝している」と。危機を乗り越えたことで家族の距離が近くなり、以前より絆が深まったようだ。
(株)サンポウの平井会長・社長・常務と山口慶之助・弘人氏
波乱万丈な人生でありながら、不思議と物事は好転してきた。本人は、「全て人の縁だった」と感謝するが、その謙虚さこそが良縁を呼び寄せた。現状にあぐらをかかず肩書にもとらわれない潔さ、モノに固執しないこと、常に「これでいいのか」と自問自答を繰り返し前に向かって生きること、それら全てが幸福を生み出す源になっている。
「60歳は他人より元気。70、80歳と歳を重ねて、80過ぎたら足腰がガクッときた」と、今までできたことができなくなってきたことを「ショック!」として披露する。それでいて、悲壮感がない。楽しそうにも聞こえる。肉体の老いはあっても、生きる姿勢や精神の衰えはまったく感じられない。
体は歳相応に老いて、持病の薬を服用している老剣士の心は、今も昔も同じ。
where there is a will, there is a way.
為せば成る なさねばならぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり。
これからの人生もきっと輝き続けることだろう。
【Project staff】
企画・編集/ドクターリフォーム Banana works LABO
カメラ/氏家亮子・CLALiS
ライター/菊池京子




