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2024.09.05『一度きりの人生をとことん楽しむ暮らし』

大塚順美(なおみ)さん


Profile
“今”を一生懸命に生きて、とにかく心がチャーミング。
在日韓国人三世として宇都宮市に生まれ、祖父母、父母、二人の兄の大家族の中で育つ。
夫の訓平さんとは幼なじみで、それぞれの人生の転換期に再会。不慮の事故で脊髄を損傷し車いすで現れた訓平さんは、「健常者の時よりもキラキラと輝いて、人としてとても魅力的だった」と、再会の瞬間を印象深く語る。
どうやら、外見よりも内面、そして、人や物事の本質が気にかかる性分らしい。
再会した8月13日から数えて813日目に、訓平さんから想いを込めたプロポーズがあり、その8カ月後の2014年4月に結婚。一男一女をもうけ、一日一日を大切に活き活きと楽しく暮らしている。


『流されることなく自分の心に従う』


在日韓国人とはいえ、韓国を訪れたことはなく、韓国語を話せるわけでもない。今でこそK-POPは世界を席巻しているが、「歴史的にみて少しマイナスなイメージが私にはあって、あまり“韓国”に興味がなく、どちらかというと切り離したい気持ちがあった」そうだ。それが、高校3年時に開催された2002年日韓合同ワールドカップを機に、「関連イベントで韓国伝統芸能などを見て、なぜか血がさわいで、ルーツ探しの旅がしたくなった」と心境が変化。
そして、地元の栃木県立宇都宮女子高等学校を卒業して、韓国に1年半の語学留学を決行。得ることが多く、特に同胞の友人と出会えて、今も交流が続き「韓国に行って本当に良かった」と。



(前列左から2人目)

みんなに愛され幸せな家庭で育ったからか、夢は結婚。「幼少期からませていて、ホームドラマをよく見ていましたが、自分の家庭が理想に近く、早く家庭を持ちたい」と。中学生の時には「大学へ進学する意義が見いだせなかったので、最終学歴になる高校は、それなりの学校にしよう」と、明確なビジョンを持って地元有名高校に進学。

小学3年ではじめたバスケットボールを、中学、高校と続け、キャプテンを務めたり、インターハイに出場したり、とにかく熱中し、楽しみ、そして実力を発揮。「辛い事もいっぱいあったけど、バスケを通して忍耐力を培い、アイデンティティを確立できた」と、やり切った感でとても満足そうに振り返る。

骨折した腕で鉄棒をするなど、幼い頃からかなりの“わんぱく”ぶりを見せていた。周りに左右されるよりも、自分で決めて、自分が納得するまでやり通す。通説にこだわらず柔軟でリベラル、さらに意思の強さと粘り強さを持つ。だからこそ、自分らしさが全開。



留学後は、実家に戻り調剤薬局に3年間勤務。
家族ぐるみで仲が良かった訓平さん一家が引っ越してから、お互いに音信不通だったが、訓平さんのお母さんが調剤薬局を訪れたことで、15年ぶりに再会。当時、不動産業を営む訓平さんは、妻子がいて、うつのみや花火大会のボランティアにも熱く取り組み、公私共に充実していた。順美さんも花火大会のボランティアに引き込まれ、再び妹的存在に。

当時、バリや東南アジアに憧れていて、バリニーズマッサージを受けてからは、自分もやりたいという気持ちが高まる。横浜で学べると知って迷っていると、「やりたいことがあれば行けばいいじゃん」と、背中を押してくれたのは訓平さん。その言葉に刺激され、仕事を辞めて上京。東京の兄のところから、横浜に通う。
そんな中、友人から東大専門進学塾の事務職のバイトに誘われ、面接を受け採用されると、結婚で退社するまで5年間勤めた。最後の1年間は、訓平さんの「そろそろ戻ってきたら」の言葉で実家に戻り、宇都宮から東京に通勤。


『ずっと続いている二人の縁』


兄のサッカー仲間として知り合った縁は、時には疎遠になったり、親近になったり、お互いの人生の局面で、ドラマチックに絡みあってきた。

東京の暮らしが少し落ち着いた時に、いつものように訓平さんのブログを見ると、更新されていなくて、「はてな ?」と心に引っかかっていた。それから半年ほどたったある日に「車いすになりました」と投稿されていて、びっくり。見舞いに行こうとメールしても返信がなく、心配がつのる。一方の訓平さんは、返信したのになんの応答もなく、「なんだこいつ(笑)」と思っていたそうだ。実は、訓平さんのメイラーの不具合で送られていなかったのだ。
1年ほど後に、訓平さんから、順美さんの夢を見て胸騒ぎがしたと早朝に安否確認のメールがあった。ちょうど前日にお盆で帰省していたので、「お茶しよう」と誘われ、会うことに。さらに、自分で車を運転して迎えに来てくれた。「車いすの人は運転せず、弱々しいと勝手に思い込んでいた」ので、訓平さんの活き活きとした姿はインパクト大。
「突然の車いす生活と離婚という大変な時にあっても、キラキラしている活力に、人として興味が出て、自分の知らない世界を教えて欲しいと思い、これからは同じ目線で見ていきたい」と再会に感謝。ひたすら前向きに生きる訓平さんだが、内面では深い悩みと葛藤があったはず。“同じ目線”というキーワードに惹かれたのは当然なこと。それから二人の距離はぐっと近づいていく。
「すぐ返信が届いて、母と見舞いに行っていたら、こうはならなかった」と。メールの行き違いのハプニングがあったからこそ、二人の絆が強まったとも言える。



しかし、夢の結婚にいきつくまでは紆余曲折。
幼少の頃から母親たちの人気者だった訓平さんではあっても、いざ結婚となると、障がい者という偏見が立ちはだかった。結婚式当日も身内の反対で迎えたが、友人の涙ながらの「訓平は大丈夫ですから…」のスピーチに、障がい者へのマイナスイメージが払拭され、参加者全員に祝福されることとなった。
「一度会えばみんな必ず好きになってくれるという自信はありましたが、あれだけ反対していた親戚たちも、今ではみな『訓平くん大好き』です」。

訓平さんは「命があればあとはかすり傷」をモットーに、株式会社オーリアルを経営。健常者と障がい者の両方の経験を活かして、不動産事業やバリアフリーコンサルティング事業を精力的にこなしている。
そんなスーパーポジティブな夫を、順美さんは「いろんな事を知っていて、虜になった。支えるというよりも、人間的にかっこいいし、頼れる存在」と言い切る。
どうやら二人は、フィフティフィフティな素敵な関係をキープしているようだ。


『楽しく子育て真っ最中』


5歳の長男と2歳の娘に「愛しているよ。宝物だよ。大好きだよ。いつも味方だよ」と、毎日口に出して伝えている。できないかもと思っていた後に授かった命。「その存在自体がありがたい。自分たちの縁も、子ども達もご先祖さまがつないでくれたもの」と、感謝することしきり。
「完璧な親ではないけれど、子ども達の個性を理解して、できるだけ本人の意思を尊重したい」と四苦八苦しているそうだ。自宅と会社が廊下でつながっているので、夫のサポートも多いに助かっている。
「思春期になれば、もしかすると車いすについて、周りから言われて傷つくこともあるはず。そんな事も軽やかに乗り越えられる心を育んでいきたい」と、仕事や講演をする父親のカッコイイ姿をできる限り見せている。そして、七夕の短冊に「不動産屋さんになる」と父親の職業を書いた息子を、誇らしげに語る。

家族円満の秘訣は、「よく話すこと。些細な事も話します」。楽しい事だけではなく、喜怒哀楽全ての感情を共有しようと努めている。よりそう思うようになったのは、大塚家に嫁いでから。
大塚家では家族間で色々な話をよくします。その会話の内容がとてもポジティブで日々の生活や子育てのヒントになることが多いです。「自分を大切にすることは大事ですが、相手を尊重しながら自分を固辞することが必要」と、お互いが寄り添っていけるように心掛けているそうだ。


人生の大きなテーマは、「一度切りの人生を楽しむこと」。
そんな想いが、子ども達の名前にあふれている。息子・楽句(がく)、娘・瀬楽(せら)。
コロナ禍など予測できない時代だからこそ、「問題が起きても、夫は『こういうことがあるから人生は楽しいんだ』と、全てをいい方向に転化させています。夫のポジティブな部分やその思考を、子ども達にも育んでいきたい」と。そのためにも、まずは、自分自身から日々の暮らしを楽しんでいる。

家族と楽しく暮らすことは、まさに幼少の頃より憧れ続けてきたもの。
自分らしく、今を大切に活き活きと生きる姿は、夫と同じようにキラキラと輝いていた。



【Project staff】
企画・編集/ドクターリフォーム Banana works LABO
カメラ/氏家亮子・CLALiS
ライター/菊池京子